館主日誌 Ⅱ
館主日誌 Ⅱ
このキノコ 食べられますか??
7.22 福島矢の原湿原にて
友人に誘われて福島へキノコ狩りに。目的はチタケでしたが時期が早くて収穫なしでした。収穫できたのはこの一本。色鮮やかで毒キノコだと思いましたが・・・ なんと 食用キノコとして人気があるというタマゴタケでした。友人から教えてもらいました。2021.7.22
焼いて食べるといいと聞きましたので、早速その日の晩に焼いて食べました。家族には食べない方がいいと止められたのですが。
なにしろ初めてのキノコです。その味も初めての味でした。タイの刺身にみょうがを挟んだような味でした。表現するのは難しいです。
次の写真の2点の用途は?
左 右
10年前、コンゴ共和国で手に入れたものです。これを目にした時の感動を思い出しました。
地球温暖化やSDGsがクローズアップされていますが、この2品は『アップサイクル』品です。リサイクルよりSDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」に貢献します。
左は栓抜き、右はフライドポテトのジャガイモを切ります。
今頃になって知りました。洋服の後ろ前がわかる方法
お恥ずかしいですが70になって初めて知りました。
答え:内側下部に付いているタグを左側にして着れば良いのです。
⇒もっと詳しく
首元についているメーカーやサイズ表示などのタグで分かることは知っていましたがこのタグで分かるとは知りませんでした。
表と裏
ほとんどの洋服やシャツの内側左下にこのようなタグが付いています。
このタグは『法律(家庭用品品質表示法)』と『規程(繊維製品品質表示規定)』に基づいて付けられているとのことです。
ついでに原産国(country of Origin)表示について
上の写真右のタグに MADE IN CHINA と原産国表示があります。これも法律やルールによって表示されています。タグを見ると、特に衣類などには中国製が圧倒的に多いです。(新型コロナも中国から世界各地に拡散しました)
28年乗り続けた愛車”ジムニー”との別れ・・・
2020.12.11撮影
乗り始めてからまもなく29年になります。車検を機に乗り換えることにしました。年甲斐もなくしんみりとしています。
老いの身のこれからのことを考えて、自動ブレーキの付いた車にします。手放したくないのですが仕方ないです。ドライブレコーダーも付けることにしました。
ポポーを食べ始めました 2020.9.6
2020.9.5撮影
畑に植えたポポーの実です。熟すと独特な香りがあり、ねっとりとしてとても甘いです。コンゴで食べた熟したマンゴーの味に似ています。トロピカルフルーツの味です。きらいだ、食べられないという人もいます。
傷みやすく日持ちしないため流通していません。これからしばらく収穫できますので食べてみたいという方はどうぞご来館いただきご試食ください。
上の3個は輪切りにしたものです。適度に熟しています。
下は良く熟した実を縦半分に割りました。ナイフで切ると中にある種が切れないで片側に寄ります。
スプーンですくって食べます。
苗があります。
ご希望の方には無料でお譲りします。ご遠慮なくお問合せください。
ポポー
北米原産の落葉高木。アメリカでは、アメリカン・カスタードアップルと呼ばれています。明治期に日本に持ち込まれました。
ポポー、ポポ、アケビガキとも呼ばれます。樹皮や種子、新葉にはアセトゲニンといわれる強い殺虫成分が含まれており、害虫に対しとても強く、無農薬で栽培できる果物とされています。寒さにも強いです。生産量が減り、今では希少な果樹となっています。
「柘榴の花が咲きました」今は亡きK君への報告 2020.6.30
2020.6.30撮影
親友のK君が逝ってから2年半になりますが、今でも何かにつけて思い出して寂しい思いでいます。この柘榴(ザクロ)の木は、K君の庭からもらった種をまいて育てました。逝った年の5月でした。これからもこの花が咲くとK君を思い出すに違いありません。
絞りの椿も思い出の花です⇒館主日誌 Ⅱ
持つべきものは友⇒名言集 Ⅵ
これがまあ終の栖か雪五尺 - 自分はどこで死ぬかを考える 2020.2.3
小林一茶(江戸後期の俳人) これがまあ終(つい)の栖(すみか)か雪五尺
雪に埋もれたあばら家、ここが生涯を終える場所になるとのわびしさを詠んでいます。
一茶は、50才で、生まれ故郷の信濃の国(長野県)柏原に戻りました。そこで最後の家となった主屋を全焼で失くしてしまいます。残った離れの土蔵で暮らしました。そして最期の時をその土蔵の中で迎えました。
人生の最期をどこで迎えるか、今は我が家は少なくなり、「特別養護老人ホーム」「有料老人ホーム」や「サービス付き高齢者向け住宅」などが多くなりました。入居のタイミングは「気力・体力・判断力が充実している時」だと専門家は言います。(「特別養護老人ホーム」への入居には条件があり本人の希望通りにはなりません)
古希を迎えて、自分はどうするか、10年先はどうなっているか終活をしようと思っていますが、今年ももう2月になってしまいました。「1月行く、2月逃げる、3月去る」にならないうちに・・・
われと来て 遊べや親の ないすずめ
一茶が3歳の時に母親が亡くなりました。
母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごしました。一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出しました。この継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えました。苦労苦難の人生でした。
老後資金をどうするか、子供たちに何を残すか、身の周りの整理もしなければなりません。
なんといっても健康です。寝たきりにならないために、健康寿命を長くするために心がけていることがあります。バランスの取れた食事、適度の運動、筋力維持のためのストレッチなどです。
高齢期を迎える人への言葉-今日用事があるという「きょうよう」、行く所がある「きょういく」、筋肉を蓄える「ちょきん」。
最新ゴルフ規則 2019年1月施行
日本ゴルフ協会発行のゴルフ規則最新版(2019年1月施行)をこのサイトからダウンロードできます。難解な表現がありますが一度は目を通しておきたいです。
ゴルフ規則詳細・ダウンロード⇒最新ゴルフ規則 2019年1月施行
持っておきたいがん治療の知識 - 抗がん剤治療の目的2018.2.18
二人に一人ががんになる時代です。何のために抗がん剤治療を受けるのか目的を知っておく必要があるという記事をご紹介します。
私の父は胃がん、家内は卵巣がんを患いました。幸いに摘出手術を受け完治しましたが、本人や家族の悩みと苦労は大きなものでした。家内の場合は抗がん剤の副作用に悩まされました。
抗がん剤治療の目的としては、大きく次の3つがあげられます。
(1)がんの完治をめざす。
(2)術後の再発を防ぐ。
(3)延命をめざす。
親友の死を悲しんでいます2017.12.04
亡くなったK君のことを毎日思い出しています。K君と高校を卒業した昭和43年のこの歌を何度も口ずさんでいます。
⇒悲しくてやりきれない フォーク・クルセダーズ The Folk Crusaders
親友が逝きました。 2017.11.30
特に親しかった親友のK君が逝ってから2週間になりますが、もう会えないという実感がありません。毎日何かにつけて思い出し寂しい思いでいます。
『有る程の菊投げ入れよ棺の中』 夏目漱石
「楽しい思い出をたくさん残してくれてありがとう」と書いて花と一緒に棺に納めました。
K君の庭の木から新芽をもらい挿し芽で育てた絞りの椿(ツバキ)です。
毎春この花が咲くとK君を思い出すに違いありません。
左:去年咲いた花 右:来春咲くつぼみ
掲載するのをためらっていましたが、楽しい思い出を残してもらったことに感謝し、毎年椿の花を見て思い出すことが供養になると思いこの思いを記録するために掲載しました。
仲の良い同級生4人と何度もゴルフをしました。今年の6月には一緒に2回のゴルフをしました。そしていつものようにそのあとの飲み会。二人で居酒屋のカウンターで飲んだこともありました。K君はいつも決まってウーロン杯でした。
K君は歯科医でしたので治療もしてもらいお世話になりました。
注目の数字・驚きの数字 高齢化社会 2017.10.16
2007年生まれの半数が107歳まで生きる
リンダ・グラットン
ロンドン・ビジネススクール教授
若い人は今から「人生100年時代」の生き方働き方を考える必要があります。
働く年数も長くなります。生活力を強くしないとなりません。
会社定年となり細々と生きている60代の私には、この予測をどう受け止めてよいか戸惑っています。孫たちにどう言ったらよいのでしょうか。
世界では長寿化が急激に進んでいます。過去200年のデータを見ると、10年ごとに寿命が2年ずつ延びています。
先進国では1967年生まれの半数は91歳まで生きると見込まれます。1987年生まれは97歳、2007年生まれに至っては2人に1人が103歳まで生きることになります。日本の場合はさらに長寿で、2007年生まれの半数が107歳まで生きると予測されています。人生100年時代は私たちが思っているより速く、驚くべきスピードで進行しているのです。(グラットン教授)
「田中角栄」直筆はがき 支援者への礼状
コピーしかありません。
1947(昭和25)年6月
「祖国再建のために微力を傾倒しご厚言に報いたい」とお礼と抱負を記しています。
ここまで読み解くのに三カ月かかってしまいました。崩し字と変体仮名を勉強しました。
この年の4月の日本国憲法による最初の総選挙で、田中は新潟3区から初当選しました。達筆です。頭が良くて気配りができる人だったのです。
高等小学校卒業卒と本人はいっていますが、上京後働きながら神田の中央工学校土木科(夜間部)などで学び、土建会社を立ち上げました。
はがきと一緒に残されていた名刺には、田中土建工業株式會社取締役社長となっています。
⇒田中角栄について
新潟の高等小学校卒業の田中角栄が総理大臣になったのは1972年(昭和47年) でした。
私たち団塊の世代の者にとっては、日本の高度成長をけん引した偉大な政治家として忘れることはできません。日本列島改造論、そしてロッキード事件など様々なことがありました。
消えていく手仕事の技術「寒竹籠(かんちくかご)」
最寄りの物産展で、思いがけなく編み上がったばかりの寒竹籠(かご)に出会いました。
当地方では、古くから地元に自生する寒竹を利用して籠や笊(ざる)などが作られてきました。農家の副業というより自家用として作られ利用されてきました。今ではものが豊富になり技術を持っている人が高齢化したこともありほとんど見られなくなってしまいました。
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