人間国宝・濱田庄司
人間国宝・濱田庄司
濱田庄司 花瓶
濱田庄司 花生
高さ約19cm 幅約9cm ¥145,000.
濱田庄司のトレードマーク、サトウキビの文様「黍文(きびもん)」です。
蓋物
白釉鉄絵皿
濱田庄司 はまだしょうじ
東京出身。民芸品を芸術にまで高めた功労者。
1894年 生家は東京芝神名町。文房具屋の長男として生まれる。
府立一中を経て、東京工業高校で板谷波山に学び、終生の友河井寛次郎を
知る。
1916年 京都陶磁器試験場に入所、窯業技術を学ぶ。
1920年 バーナード・リーチの誘いにより渡英、セント・アイブスに築窯作陶活動に
入る。
1924年 帰国、益子町に移住。本格的に陶芸を始める。柳宗悦、河井寛次郎等と民藝運動
を始める。
1930年 近在に農家を移築して母屋となす。いご1942年までの間次々と古民家を
購入、浜田邸が構築される。
1955年 第一回重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に指定される。
1968年 文化勲章を受ける。
1977年 自作と蒐集した民藝品からなる益子参考館を開館。
*多くの作品はここに陳列されている。
1978年 83歳にて死去。
「私の陶器の仕事は、京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と自ら語っている。
益子で濱田が窯を築いた理由のひとつに、東京高等窯業学校時代に板谷波山の家で益子焼の山水絵土瓶に関心を抱いたことがあげられる。
1916年、河井寛次郎と共に京都私立陶磁器試験場へ入り、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチと知り合った。
1920年に帰国するバーナード・リーチと共に英国へ渡り、西海岸、漁村セント・アイグスでリーチと共に日本風の登り窯を築き作陶した。
英国での生活の中で、陶器制作の様々なことを学ぶが、田舎に住む、英国の工人達の素朴で健康的な生活の中で仕事をする精神、西欧文化の伝統に強く感銘していく。
それが都会ではない、田舎であった益子に住む動機でもあり、濱田の生涯を貫く厳しい生活態度の基盤でもある。
その中生まれた濱田の作品は、健康的で力強く、素朴さがあり、それでいて格調が高い。
「民芸品の良さは、健やかなくらしのにおいがあれば良い」とも語っている。
濱田自身の人間性が作品にそのまま表れている。
【益子町史より】
濱田庄司と柿釉(かきゆう)
柿釉(かきゆう)を、益子を代表する釉薬に育てたのは人間国宝・濱田庄司です。
元々益子の釉薬は「赤粉」と呼ばれ、防水機能があることから、明治以降には屋根瓦や水がめなどに塗られ、町のあちこちで見られる色でした。実用向けで、美的な色とは考えられていませんでした。
濱田は、この「赤粉」を低温で焼くなど改良を重ね、「柿釉」に育て上げました。「柿釉」と名付けたのも濱田です。
そして、さらに柿釉に別の材料を加え、多彩な色を生み出しました。
その材料のひとつが裏山のクヌギの木です。 クヌギを燃やして出来た灰を水に沈ませアクを抜き、柿釉に混ぜると全く別の釉薬が生まれます。渋みのある黒釉です。濱田は、温もりのあるこの黒を使った作品を、数多く残しました。
そのほか、柿釉をベースにした飴色の釉薬もあり、柿釉は益子焼のさまざまな色の母胎となっています。
⇒ 益子焼 木村一郎 柿釉草紋角扁壺
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