文藝春秋

文藝春秋太宰治のこと」

文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」1

 井伏鱒二 
   8,500円
 昭和23年8月号
  全64ページ

文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」2  文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」3
 発行から70年余になります。強いヤケ、汚れ小キズがあります。
  A5サイズ(148×210ミリ:現在の月刊文芸春秋と同じ)

文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」4 文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」5 

文藝春秋 井伏鱒二「太宰治のこと」6


太宰と井伏鱒二
昭和23年、太宰治は山崎富栄と心中しました。
太宰治が死んで深く悲しんだ人は、兄の津島文治、乳母がわりの越野タケ、そしてもちろん妻の美知子と3人のお子さん、愛人の太田静子とその子、そして師、井伏鱒二だっただろうと思います。

太宰治が大学入学のために上京した直後から太宰の作品を読み生活の上でも親身の世話をしたのが井伏鱒二でした。

太宰の才能を高く評価した文学者でした。大学を退学になり行きづまった太宰を郷里青森へ連れ帰ろうとした兄の文治を説得し執筆を続けさせたのが井伏鱒二と檀一雄でした。

井伏は、初婚相手の初代と離婚した太宰の荒れた生活に心を痛め、武蔵野病院の精神科へ無理に入院させました。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。太宰にしばしの幸せな家庭生活を経験させました。

しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。そして昭和23年、山崎富栄と心中したのです。

以下はその太宰の遺書です。

妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)
「美知様 誰よりもお前を愛していました」

「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
 井伏さんは悪人です。このくだりには太宰の屈折した性格が表れています。これはさんざんお世話になった井伏鱒二へ甘えた最後の態度です。こんな形でしか井伏さんへの感謝の気持ちが伝えられなかったのではないでしょうか。

一緒に心中した山崎富栄の遺書(抜粋)
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。
奥名(亡くなった元夫。4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」

帯で固く結び合わさった二人の遺体が見つかったのは6日後でした。太宰治の遺体はすぐに白木の棺へ入れて運び去られましたが、山崎富栄の遺体は父が駆けつける夕方まで玉川上水の堤に上に蓆をかけて放置されたままです。遺体を見下ろしながら父は長い間絶句していたといいます。

a:1729 t:1 y:1

B-132

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional