太宰治「東京八景」昭和16年初版 装丁小磯 良平 C120
太宰治「東京八景」昭和16年初版 装丁小磯 良平 C120
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昭和16年5月3日発行 實業之日本社 初版
表紙は小磯良平の「セイヨウアマナ(ハナニラ)」の絵
背表紙下(写真右下)にキズがあります。全体に激しいヤケがあります。
80年以上前の昭和16(1941)年に発行されました。
東京八景
(苦難の或人に贈る)
小磯 良平 装幀
伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索寞さくばくたる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二箇月間、小説が全く書けなかったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私は、Hという女と共同の家を持っていた。田舎の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、・・・
↑「東京八景」冒頭 ⇒全文
「東京八景」の一節
自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気附かなかった。
1941年、32歳の太宰治が、伊豆の南の小さな温泉宿で2ヶ月、集中して短編小説を書こうとしています。タイトルは『東京八景』。太宰が大学進学のため上京してからの十年間の東京生活を、そのときどきの風景に託して書こうというのです。それは「青春への訣別の辞」であり「一生涯の、重大な記念碑」となるべき小説です。
1930年、はじめは戸塚、弘前ひろさきの高等学校を卒業し、仏蘭西語を一字も解しないまま東京帝大の仏蘭西文科に入学。H(小山初代)と同棲しながら非合法共産主義運動に関係、長兄が上京し一時Hを実家に預けることになると、銀座のバーの女給・田部シメ子と鎌倉で入水、太宰のみ生き残ってしまいます。
23歳、再びHとの同棲がはじまります。非合法共産主義運動、留置場生活……24歳の晩春、日本橋・八丁堀。Hの裏切り。芝区・白金三光町。遺書を綴ります。『思い出』。幼時の悪について書きます。これが太宰の処女作となります。25歳、大学を卒業できる見込みはありません。家族の信頼を欺く自分、それは狂せんばかりの地獄です。それから2年、太宰は地獄の中に住みますが長兄に泣訴して留年し、裏切ってしまいます。やはり遺書を書くことに没頭します。『晩年』です。
HUMAN LOST 冒頭
「十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。銅貨のふくしゅうだ。ここは、気ちがい病院なのだ。」――当時の太宰治は、度重なる自殺未遂やパビナール中毒など、乱れた私生活を送っていました。心配した家族は、彼を精神病院へ入院させるのですが、太宰治本人はこのことを大変恨みに思いました。「自分は“騙されて”気ちがい病院へぶち込まれた。みんなは自分を狂人だと思っている。裏切られたんだ!」と太宰は信じてしまいます。手記には、お見舞いに来てくれない妻や友人たちへの恨み節が満載です。
HUMAN LOST
坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された小説家である太宰治の短編作品。昭和初期「慢性パビナール中毒症」の病名で入院していた一カ月間の病床体験が日記形式で描かれており、「人間失格」の原型になったともいわれています。
初出:昭和12年4月「新潮」
あとがきより
HUMAN LOSTは、ひどく亂れてゐる。思ひ違ひして書いてゐるところもある。けれども、それも捨てがたいので、そのままにして置いた。 昭和十六年三月。
「東京八景」の初出は、「文学界」昭和16(1941)年1月号。その後まもなくの昭和16(1941)年5月3日に、實業之日本社から「HUMAN LOST」などの短編と併せてこの単行本が発行されました。
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