伊勢暦(いせこよみ) 冨田大貮(暦師) C009

伊勢暦(いせこよみ) 冨田大貮(暦師) C009

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伊勢暦(いせこよみ) 冨田大貮(暦師) C009-1

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天保五年(1834)、★天保六年(1835)、
●天保十五年(1844)
 ここまで寛政暦
▲弘化五年(1848)
◎嘉永二年(1849)、嘉永五年(1852)、◆嘉永六年(1853) 、嘉永七年(1854)、嘉永八年(1855)
安政五年(1858)
文久二年(1862)、文久四年(1864)
元治二年(1865) 元治二年(1865)四月、慶応と改元
慶應二年(1866)、慶應三年(1867)、
慶應四年(1868) 1868年(慶応4年/明治元年)に、天皇を中心とする中央集権国家を目指した明治政府が誕生 15代徳川慶喜 孝明天皇

他に15枚
・文化13年(1816) 西嶋左門
・★天保6年(1835) 西嶋左門
・天保10年(1839) 西嶋左門
・天保11年(1840)  西嶋左門
・天保12年(1841)  西嶋左門
・天保13年(1842)  西嶋左門
・●天保15年(1844???)  宮崎左近  弘化元年 寛政暦から天保暦に
・天保16年(1845) 飛鳥帯刀 弘化2年 天保16年は存在しない天保15年12月2日改元
・弘化3年(1846) 飛鳥帯刀
・弘化4年(1847) 山口右兵衞
・▲弘化5年(1848) 宮崎左近
・◎嘉永2年(1849) 宮崎左近
・嘉永3年(1850) 山口右兵衞
・嘉永4年(1851) 宮崎左近
・◆嘉永6年(1853) 山口右兵衞
      NO.0064-15
ING
嘉永4(1851)、
文久3(1863)、4(1864)
元治2(1865)、
慶応2(1866)、3、4、
明治2(1869)
   NO.0734-8/645

22.7.26Yah NO.0006 18枚/333
伊勢暦
寛政4年、1792
天保14年、1844
弘化4、5年、 1847 1848嘉永元年 2月28日改元 
嘉永2~8年、
安政3~7年、1856 7年1860万延元年 3月18日改元
万延2年 1861 文久元年 2月19日改元

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20200730Ya 00021/107:211
江戸 伊勢暦  ()内元年
明治(1868)10冊:2,3,4,5,13,17,18,20,22,28年 大小
慶応(1865)3冊:2,3,4年
元治(1864)1冊:2年
文久(1861)3冊:2,3,4年
萬延(1860)1冊:2年
安政(1854)5冊:3,4,5,6,7年
嘉永(1848)7冊:2,3,4,5,6,7,8年
弘化(1844)3冊:3,4,5年
天保(1830)14冊:3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16年
文政(1818)13冊:23,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14年
文化(1804)13冊:2,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15冊
享和(1801)3冊:2,3,4年
寛政(1789)12冊:2,3,4,5,67,8,910,11,12,13年
天明(1781)8冊:2,3,4,5,6,7,8,9年
安永(1772)4冊:4,5,7,8年
明和(1764)5冊 :4,6,8,9年 大小
宝暦(1751)1冊:6年
享保(1716?)1冊:16年
   計107冊

●天明天保の大飢饉
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10122249090
 天明の大飢饉 1782年~1787年にかけて起こった全国的なききん(これからは飢饉と書きます)のことです。はじめは悪天候のために作物の不作がおこり、さらに洪水や浅間山の大噴火によって、作物の不作がひどくなり、飢え死ぬ人が大量に出て、一揆もおこってしまいました。この大惨事は田沼意次の失職の原因のひとつとなりました。

 天保の大飢饉 1833年~1836年にかけて起こった全国的な飢饉です。こちらは大風雨、洪水、冷害と悪天候の影響で作物が大不作になり飢え死ぬ人が続出、たくさんの一揆がおこりました。大塩平八郎の乱は幕府のこの飢饉に対する処置の不十分さから起こったものです。この飢饉は幕藩体制の衰退をすすめました。

享保の飢饉を合わせて江戸時代の三大飢饉
 1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても5月、6月まで雨と低温がつづくなど悪天候が続いた[1]。
1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地が凶作に見舞われ、とりわけ西海道(九州地方)の被害が深刻であり[1]、瀬戸内海沿岸一帯もまた甚大な被害を受けた[2]。。梅雨からの長雨が約2か月間にも及び、冷夏をもたらした[2]。このため、ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらし、蝗害として記録された[1][2]。

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伊勢暦とは
伊勢暦(いせごよみ)は、江戸時代の代表的な暦の一つで、伊勢神宮の神官の藤波(ふじなみ)家が刊行した細長い折本の暦です。御師(おし)が、伊勢詣の土産として御札(御祓大麻 おはらいたいま)に添えて全国的に配りました。

 出典:古文書ネット https://komonjyo.net/isegoyomi01.html

伊勢暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%9A%A6
伊勢暦(貞享暦)佐藤伊織 1729(享保14)年版。(国立科学博物館の展示)

伊勢暦(宝暦暦)野呂主馬 1755(宝暦5)年版。(国立科学博物館の展示)

伊勢暦(寛政暦)中北外記 1818(文化15)年版。
伊勢暦(いせこよみ)とは、江戸時代に伊勢神宮の門前である宇治および山田の暦師が製作し頒布していた暦であり、今日の神宮暦の前身である。

概要
伊勢暦は伊勢の御師(おんし)が年末に伊勢神宮の御神札とともに伊勢暦を配るようになり、全国に知られるようになった。山田(外宮)の暦師は時期によって14から20軒程度であり、宇治(内宮)の暦師は1軒であった。

1871年(明治4年)御師制度が廃止され、伊勢暦の頒布も中止された。1882年4月の太政官布告で、1883年(明治16年)からの官暦は神宮司庁が発行することになり、神宮暦として暦の刊行が行われることとなった。

伊勢暦の出版者(暦師)一覧
伊勢内宮
佐藤伊織
伊勢度会郡山田
飛鳥帶刀
瀬川舎人
瀬川長大夫
冨田大貮
中川内匠
中北外記
永田長大夫
中村助大夫
西嶋左門
野村茂大夫
野呂主馬
保利田山城
箕曲主膳
箕曲主水
宮崎左近
村松左京
森田八大夫
山口右兵衛

寛政暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E6%9A%A6
寛政暦(伊勢暦・中北外記)1817年出版 文化15年版
寛政暦(かんせいれき)とは、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法(和暦)である。

以下、和暦の日付は旧暦表示、西暦の日付はグレゴリオ暦表示である。

使用期間
寛政10年1月1日(1798年2月16日)に宝暦暦から改暦され、天保14年12月29日[1](1844年[2]2月17日)までの46年間使用された。

天保15年[3]1月1日(1844年2月18日)、天保暦に改暦される。

概要
宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦をしようとし、高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したが、惑星については周転円に基づく理論であった。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用した。

弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエのものをいれるなどしている。

天保8年(1837年)の大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、11月が小月であり[4]、その覚え言葉が「西向く士」であった。文政8年(1825年)の大小月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんのぼた餅亥の子寒餅」という。

脚注
^ 天保14年は、12月29日までである。12月29日の翌日は、年が明けて天保15年1月1日で天保暦に改暦される。
^ 天保14年12月29日(寛政暦)は、グレゴリオ暦では年が明けて「1844年」となる。
^ 天保暦への改暦の年月日を、「弘化元年1月1日」としている場合もあるが、天保15年は、12月1日(1845年1月8日)までで、弘化元年は、12月2日(1845年1月9日)に改元される。しかし、改元が布告された時点でその年の元日にさかのぼって新元号の元年と見なす場合(改元#種類を参照)があり、天保暦への改暦を「天保15年」とする文献と、さかのぼって「弘化元年」とする文献があるので注意が必要である。
^ [1]
表話編歴
和暦(寛政10年1月1日-天保14年12月29日<1798年2月16日-1844年2月17日>)

明治維新
https://www.touken-world.jp/tips/61500/
1853年(嘉永6年)、アメリカの「ペリー」率いる艦隊が、日本に開国を求めて浦賀に来航したことを発端に、徳川家による江戸幕府の統治体制が崩壊。1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、政権を天皇に返上する「大政奉還」を行い、1868年(慶応4年/明治元年)に、天皇を中心とする中央集権国家を目指した明治政府が誕生しました。この幕末の動乱から明治政府が成立するまでの政治的革命が「明治維新」(めいじいしん)です。ペリー来航から明治政府樹立までの15年間について、詳しい内容をご紹介します。

伊勢暦 文化5年(1808年) 上顧客用大判 古書 古文書

105x300mm
虫損が有ります。最終部剥がれています。

上顧客 武家 商家 神社仏閣 等に配ったものです。

通常の一般の大きさの約1.5倍で
紙の材料 厚み に違いが有ります。
上下スペースの余裕が広くとってあります。
上顧客用大判はなかなか市場に出ません,大変貴重な古文書です。

画像の説明

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和暦・西暦、天皇・幕府・将軍 年代順早見表
国立国会図書館デジタルコレクション[伊勢度会暦慶應3年
江戸時代のカレンダー伊勢暦を読む

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NO.20 220201

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