⇒ 漫画家にとってのペン先の大切さ
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マンガにとってのペン先の大切さ
平成8年7月 日本鋼ペン先工業組合発行『ペン先のあゆみ』より
今、世間で売れている雑誌といえば、なんといっても“マンガ誌”である。某少年週刊誌は、400万部を越えているとか、いないとか。単行本も、ベストセラーというものを除けば、“コミック”の売り上げは、ダントツだろう。さらに最近では、経済の解説も、法律の入門書も、はては歴史書まで、マンガになってしまう時代である。マンガの歴史はそう古いものではないが、近年の隆盛は目を見張るものがある。
かくいう私も、マンガ好きが高じて、マンガ誌の編集者になった人間である。この業界に入って、14年。いわゆる大家から、持ち込みにやって来るマンガ家の卵たちまで、数え切れないほどの人と作品に出会っできた。その中で痛感したことは、100人いれば、100種類のペンタッチがあるという、驚きだった。
マンガ家たちが使うのは、つけペンである。(最近は、ロットリングやマーカーのような新しい道具を使っている人もふえてきてはいるが、そんなに数はいない)。 Gペン、丸ペン、さじペん…などなど。同じメーカーのペン先、そして墨汁(時には黒インク)を使っていても、1本として同じ線はない。人の作品にいくら似せて措いてあるものでも、タッチは違うのである。
絵のうまいへ夕は、デッサンやパースの勉強をすればいくらでも向上する。ストーリー作りがへ夕なら、原作者と呼ばれる人の力を借りてなんとかクリアーできる。しかしタッチの良し悪しはどうしようもない。タッチは、細ければいいとか、シャープだからいいとかいう問題ではない。味のあるなしが問われるのだ。
作家の引く線は一生変わらない(ただし、歳をとってタッチが枯れたり、忙しすぎて、雑になるということはあるが)。だから私たち編集者は、“死んだ線”を引いている新人には、「ペン先を変えてみてはどうか」というアドバイスをする。ペン先の種類を変えることで、タッチが見違えるように良くなることがあるからだ。
どれも同じはずのペン先で、なぜ同じ線が生まれないの。なぜタッチによって絵が、魅力的になったり、目も当てられないようなものになってしまうのか。いまや私にとっては、永遠の謎である。
腕1本、そしてペン先ひとつで、何億円も稼いでいるマンガ家がいる。ペン先が作り出す世界が、子供も大人もそれぞれに楽しめる、マンガの世界を作り出しているのである。現在の日本の大衆文化を支えているマンガ。その一方でマンガは、大量消費という形で時の流れの中に消えていく、えてして軽視されがちな大衆文化である。しかし考えてみると、江戸時代の大衆文化であった浮世絵も、当時、時代の生んだあだ花だった。でもその浮世絵が、20世紀の美術史上に静かに輝き続けるなんて、誰が想像しただろうか。きっとマンガも、時代を越えて必ず残っていくと、私は信じている。
また最近では、コミックがアジアの国々に向けて、たくさん輸出されるようになってきた。今日本のマンガは、世界の人々が読むマンガへと大きな可能性を秘めつつ、広がり始めている。ペン先というとても小さいけれど、素晴らしい道具があるからこそ成り立っている、マンガが。
情報化時代の今日、社会の動きに合わせて出版の世界もかなり進んできた。活字の原稿はワープロやパソコンで打たれ、それをFAXやフロッピーで受け取れるようになってきた。インターネットがもてはやされている昨今であるが、近い将来コンピューターのネットワーク化が充実すれば、日常的に画面だけで原稿のやり取りが出来る時代が来るだろう。
そして、すでに紙に印刷された本ではなく、ディスクにより、画面で読む本(?)も登場している。活字の“本”の形が変わるのも、時間の問題かもしれない。
確かにマンガの世界にも、コンピューターグラフィックを使って措いている作家が出始めている。しかしやはり、人間の手で、ペンを使って措いたものの良さには、勝てない。いつかすべてのマンガが、コンピューターで措かれ画面で読める日が来るのかもしれない。それも、そう遠くない日に。でも私たちマンガの編集者は、その日が来るまで、何十枚もの紙に、作家がコリコリ、ペンを使って措いた原稿を取りに、足を運び続けるのだ。
ペン先が生き続けている限り、私たちに近代化の波はやって釆ない。そしてそれが、私たちの誇りでもある。
とらねこ倶楽部
フリーエディター
田 端 美 香 氏
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