那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)

 
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館 に展示されている複製

大田原市ホームページより引用

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書
◇指定月日 昭和27年11月22日
◇所在地 大田原市湯津上429 笠石神社
◇保持者 笠石神社
◇員数 1基
◇製作時代 飛鳥時代
◇大きさ  台石より上の総高 約148センチメートル

湯津上の笠石神社に祀られる石碑で、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」ともいわれています。花崗岩(かこうがん)が用いられ、碑文は19字8行、全152字からなります。

 永昌(えいしょう)元年(689)、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮から那須の国造(くにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)は評督(こおりのかみ)という評(後の郡)の長官の官職を賜り、その後、庚子(かのえね)の年(700)に亡くなったため後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されています。

 碑文の内容から、韋提は最初那須の国造であったのが評督になっており、那須国が下毛野国(しもつけぬのくに)(後に下野国(しもつけのくに))に組み入れられたことがわかります。また、「永昌」は唐の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号であり、碑の文字が六朝(りくちょう)の書風であること、またこの当時新羅人を下野国に居住させたということが「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目されます。

 石碑は江戸時代に入り、水戸黄門で知られる徳川光圀の尽力により顕彰されました。

 延宝4年(1676)、水戸藩領武茂郷小口村(現那珂川町)の里正(りせい)の大金重貞(おおがねしげさだ)は、旅の僧円順から湯津上村内の草むらに埋もれた古碑の話を聞きます。重貞はその碑を調べ自身の著作「那須記」に記し、天和3年(1683)武茂郷を巡幸した徳川光圀にその書を献上し光圀の知るところとなりました。

 光圀は石碑の保存顕彰のため元禄4年(1691)には碑堂の建立を開始し、同5年には、碑の主を求めて、日本で最初の学術的な発掘調査を上・下侍塚古墳(国指定史跡)で行いましたが、被葬者は明らかになりませんでした。同年6月には完成した碑堂に自ら参詣しました。この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、光圀の指示は家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を通じて行われました。重貞は事の経緯を「笠石御建立起(かさいしごこんりゅうき)」に記しています。

 なお、群馬県高崎市吉井町の多胡碑(たごひ)外部サイトへのリンク、宮城県多賀城市の多賀城碑(たがじょうひ)外部サイトへのリンクとともに日本三古碑のひとつに数えられます。

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