軍事郵便と紋章

軍事郵便と紋章

お買い上げいただいた「軍事郵便と紋章・・広島市への原爆投下で戦死の知らせ」が、「広島平和記念資料館」に寄贈されました。
軍事郵便と紋章 寄贈者:広島市在住の筑後屋様
72年前の昭和20年(1945年)8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。不幸にも武術修業のため広島に派遣されていた曹長が亡くなりました。所属隊の隊長がご遺族(御父上様)宛に書いた手紙です。部下の死を深く悼み「御英霊は戦友にいだかれ無言の御帰還遊ばされる」とあります。
終戦となり部隊が解散となる混乱の中です。維持されていた軍隊の規律、高い精神性が伺えます。 

原爆ドームと広島平和記念資料館
私は大阪に単身赴任していたこともあり、広島の原爆ドームには2度行っています。20年ほど前のことです。
平和記念資料館を見学しましたが、その時受けた衝撃を忘れられません。 軍事郵便は偶然にも縁あって入手しましたが、あの時の衝撃がなければ見過ごしていたと思います。

今回改めて文面を確認しましたが、敗戦という大混乱の中で部下の死を悼みその死をご遺族に知らせ、遺骨を戦友に託す心意気はとても崇高で感動します。
速筆ですが思いは文面に滲み出ています。

ふさわしいところに収蔵いただき後世に残されることはありがたくとてもうれしいです。
筑後屋様のお取り計らいに感服し敬意を表します。

軍事郵便と紋章4
 右下に「陸軍」と印刷されています。

軍事郵便と紋章5
 隊長がご遺族宛に書いた手紙です。宛名には亡くなった曹長の名も記されています。

軍事郵便と紋章7

軍事郵便と紋章8  軍事郵便と紋章9

軍事郵便と紋章10

謹啓
時下初秋の砌愈愈・・・
陳ば御子息飯泉曹長殿には去る七月三十一日より約1ヶ月間武術
修業務のため廣島第一補充隊に分遣中の処去る八月六日原子
爆弾の大惨状に対し我等将兵一同只管御健全を祈念して
中隊数名を派し探索中なりしも確報を得ず止むを得ず
〇〇〇と連絡引続き探索続行せし処不幸にも御死
体発見御戦士遊ばされ候に付ては我等幾兵申し上げる言葉
すらなく只哀惜の情に不堪候
早速公電を以て・・・
  当部隊も解散せる事と生成来る十九日     
      御英霊は戦友にいだかれ無言
の御帰還遊ばされる事筑後屋様

      ・   
      ・
      ・
先は前便を以て御報知申述度如件御座候
                  敬具
         九月十七日
               井手楷隊長
               将兵一同
   飯泉曹長殿
   御父上様

●筑後屋様よりご寄贈いただいた資料は、来年の夏か秋ごろに「新着資料展示室」において公開されます。
広島平和祈念資料館は、現在、建物の改修作業中で、本館・東館両方の改修完了後に公開される予定とのことです。

広島原爆による死者数

広島市ホームページより

被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。

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