富山の配置薬 「廣貫堂」箱と薬 A177
富山の配置薬 「廣貫堂」箱と薬 A177
売切れ
3,800円
「廣貫堂」
越中富山の置き薬
「廣貫堂」は、今から145年前の明治9(1876)年に富山市に誕生しました。その当時から製造販売された「實母散」などの紙袋が入っています。
「廣貫堂」の歴史
明治初年には、富山藩は100種を超える薬を取り扱っていましたが、廃藩置県により薬を扱っていた反魂丹役所がなくなり、大きな転換期を迎えます。新政府は、国内の医薬業界を国家統制のもとにおくため、売薬規制法を制定し、漢方売薬を廃止に追い込みました。この苦難を乗り越えるため富山の売薬業者たちは、それぞれの資金と知識をあわせて、売薬結社「広貫堂」を発足させました。今から145年前の明治9(1876)年でした。
「広貫堂」の由来
「広貫堂」という社名は、前田正甫公の「広く救療の志を貫通せよ」の訓示に由来すると伝えられています。
また、広貫堂のマークである「ふくら雀」は、旧富山藩反魂丹役所にちなんでつくられたものです。日々の健康のため、なくてはならない家庭用配置薬が、日本全国に羽ばたく雀のようにすみずみまでおし広げられるようにとの願いが込められています。
富山市の広貫堂資料館に同じような配置薬箱が展示されていますがこちらは新物のようです。⇒広貫堂資料館
箱には汚れやキズがあります。
薬が入っていた紙袋(中身はありません)
高級せきどめ 小児かぜくすりオイヒ 強力セメン圓(虫下し良剤) 小児ねつとかん(金匱救命丸) ケロリン(製造元内外薬品商會) 實母散 強力トンプク ノイメンタム紙箱(製造元第一薬品工業)
實母散 胃腸薬の「反魂丹」などとともに明治9年の創業当初に免許鑑札が下り長く製造販売されました。この紙袋には、株式會社 廣 貫 堂 ¥25.00 と記載されています。
強力セメン圓(虫下し 回虫駆除)
私が子供のころ(昭和30年代)は回虫(寄生虫)を持っている子供が多く、小中学校で定期的に検便が行われました。発見されると通称「虫医者」と呼ばれる医院で薬を処方してもらいました。
強力セメン圓 回虫駆除法が書かれています。
強力かぜねつトンプク
新しい進歩した風ぐすり
抗ヒスタミン剤配合
解熱鎮痛剤
トンプク(頓服)とは
食後など決まった時間ではなく,発作時や症状のひどいときなどに飲む薬です。
頓(トン)には苦しむ、疲れるの意味があります。服は服用の意味です。
富山の置き薬
創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている営業形態です。
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「先用後利」の精神から生まれました。先用後利とは「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念です。
消費者の家庭に予め医薬品を預けておき定期的に巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムです。
薬事法では医薬品の小売を店頭販売と規定し消費者が転売することを禁じているため、「決まった消費者のもとで配置という形の陳列販売をしている」と解釈されています。
ここ栃木県の我が家にも、かつて置き薬がありました。それも、2社、3社といくつもありました。
a:1365 t:1 y:1
IMT Kan1FNdan2 181201