「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95

「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95

「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-1

 2,100円
 特大サイズ:写真全紙
  (457×560ミリ/18×22インチ)
男はつらいよ

   「男はつらいよ」第24作「寅次郎春の夢」
 非売品 映画館のショーウィンドウ用 使用されたものです。 ピン穴が、淡いヤケ、スレがあります。

「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-2
 透明のビニルに包んで保護してあります。写真右上の波打っているしわは透明ビニルです。

第24作 男はつらいよ 『寅次郎春の夢 』(昭和54(1979)年12月 公開)

 マドンナを演じた女優と役柄:香川京子 (翻訳業 圭子)
 ロケ地:和歌山県、京都府、アメリカ合衆国(アリゾナ州)

アメリカから日本へ、ビタミン剤のセールスにやってきたものの、やることなすこと上手くいかないマイケル・ジョーダン(ハーブ・エデルマン)が、御前様の善意あるアイデアで、とらやに下宿します。マイケルに親切にするとらや一家。そこへ、アメリカ大嫌いの寅さんが帰って来て、対決か! と緊迫の一瞬を迎えますが、満男の英語塾の先生・めぐみ(林寛子)と、その美しき母・圭子(香川京子)が現れて、寅さんは方向転換してしまいます・・・

 ハリウッドのコメディ映画で活躍してきた名傍役・ハーブ・エデルマンをゲストに迎え、アリゾナロケを敢行した華やかな一編。同じ旅人同士、言葉の壁もなんのその、心を通わせる寅さんとマイケル。博とさくらの日本的な夫婦関係に疑問を感じたマイケルが、さくらに思慕を寄せます。坂東鶴八郎一座の「蝶々夫人」とさくらをだぶらせるマイケル。自分の気持ちをストレートに出すアメリカ人と、表には出さない日本人。コミュニケーションをテーマに、寅さんとマイケルの友情が育まれます。

「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-3
 右下のペットボトルは大きさの参考です。

「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-4 「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-5
 分かりにくいですが、四隅にピン穴があります。

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「男はつらいよ」第24作 特大スチル写真 A95-8
とらやに下宿するアメリカ人セールスマンとして役名マイケル・ジョーダンが登場します。通称マイコー、マイコさん。この役を演じているのが、アメリカ人俳優ハーブ・エデルマン(Herb Edelman)です。

寅さんの啖呵売

日本人は、つまり下駄を履かなくなったことに原因があります。ね、いいかい、おかあちゃん、足の親指と人差し指の間ね、この間に人間の体を司るツボがあります。ここに鼻緒をグンと突っ込んで歩きながらグイグイと刺激する。日本人の偉大な発明であります。俺なんかほら、三百六十五日、年中、草履はいているから病気一つしたことがない。ただし、頭の方はよくないが、これは親のせいだから仕方ない。こら、笑ったな、女学生、退学。(和歌山県・下駄)

映画『男はつらいよ』はお正月映画の定番でした。
寅さんこと渥美清さんは1996年8月4日に転移性肺がんのため亡くなりました。68才でした。

男はつらいよ
◇渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマと映画。
・テキ屋稼業の「フーテンの寅」こと車寅次郎。
 何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては騒動を起こす人情喜劇シリーズです。
・毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れますが、失恋するか身を引くかです。
・風景が美しい日本各地がロケ地になっています。
 42作以降は病魔と闘いながらの凄絶なロケだったそうです。

■渥美清  
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で68才でこの世を去りました。

「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬が行われ、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付されました。
訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表されました。

死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られました。
俳優では、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目の受賞でした。

「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないため芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなかったと言います。
奥さんと二人のお子さんも自宅がどこにあるのかも表に出しませんでした。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りていました。

◇山田洋次監督の弔辞
 1996年(平成8年)8月13日、松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」

5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。

体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。
そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。

医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。
7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。
何故そんなに苦しめたのか。

27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

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onacab 190715

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